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ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

目次

  1. 注意事項・このお話を読む前に
  2. 我が家の愛犬が14歳を直前に
  3. 一日を一緒に過ごす
  4. 個別火葬
  5. 「100万回生きたねこ」
  6. クッキーの幸せ
  7. ありがとう。
  8. ペットロスで苦しんでいる人へ

注意事項・このお話を読む前に

ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

このお話は、私達のように、家族として愛情を注いでかわいがったペットが亡くなってしまい、耐え難い喪失感(ペットロス)で苦しんでいる人へ向けて、その悲しみがが少しでも楽になればという思いで書き綴った記事となります。そのため、このお話には実際の私達の愛犬との別れやその後について書かれており、内容はかなり辛いものとなっています。また「ペットの死」というデリケートな事項に対する私達の考え方など書かれていますので、このような内容を読みたくない方は読まないでください。


我が家の愛犬が14歳を直前に

ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

我が家の愛犬・クッキー(ヨーキー / メス)が、先日14歳を直前に死んでしまった。死因は、目の中(眼球の奥の脳神経と眼球が繋がっている場所)に出来た腫瘍が脳神経を圧迫し、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり、最後は予定していた手術を受ける数日前に体調を崩し、点滴を受けていた際、急に病状が悪化し息を引き取った。

クッキーは、私達が子供のように可愛がっていた犬。旅行に行っている時以外は、ほぼ毎日、一緒の空間で生活をし、同じ場所で寝て起きて・・・そんな生活をしていただけに、クッキーが突然死んでしまった時は、その事実を受け入れるのにはしばらく時間が必要だった。死んだ直後はまだ身体は温かく、目を閉じた姿はただ寝ているだけで、少しすれば、また元気に起きてくるんじゃないか、そんな風に思えて仕方なかった。

最近は老衰のせいで少し体力が減って、さらに目も見えず、耳も聞こえないから、同じように死んだようにぐっすりと寝ていることが多かったので、よく寝ている姿を見ては「え?死んでないよね?」と思いながらそっとお腹に手を当てて、息をしているのを確認してホッとしたり・・そんな感じだったので、本当に心臓が止まってしまっても「いつもみたいに死んだように寝てるだけなんじゃないか」と、何度もお腹に手を当てて確認してしまった。でも、手に返ってくる反応は、クッキーの体温がどんどん冷たくなっていくだけ。そうして、病院から家に帰って数時間後、完全に冷たくなったことを確認して、段々と「彼女は本当に死んだんだ」「もう生き返ることはないんだ」という事実を受け入れていくしかなかった。


一日を一緒に過ごす

ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

冷たくなったクッキーを横に寝かせて、私たちは泣きながら彼女とのたくさんの思い出を時間を忘れて語り合った。我が家にはもう一匹愛犬・エルモ(ミックス犬 / メス)が居るのだが、エルモもいつもクッキーと同じく私たちと一緒に暮らし、どんな時でもエルモとクッキーはいつも2匹一緒だった。普段はクッキーと餌やおやつの取り合いをしながらも思い思いの場所で過ごしていたエルモも、この日はクッキーの眠っている側にピッタリと寄り添うように座り、そしてクッキーの側にくっついて寝ていた。クッキーが亡くなってしまったということをエルモなりに理解して悲しんでいるのかもしれない。

人が死んだ時は、その日は「お通夜」として、同じ空間を故人と共に過ごす時間があるが、それは遺族にとってとても大切な、無くてはならない時間だというのが、このクッキーの死に直面して初めて分かった。クッキーがもし、死んですぐに火葬されるような状況だったとしたら、多分、クッキーが死んだということを自分の頭が理解する前に、その存在が目の前から消えてしまうので、心の整理がつけられない。

こうして、二度と目を覚まさないクッキーを側に置いて、彼女と過ごしてきた思い出を振り返っていくことで、少しずつ、クッキーが死んだということを、徐々に自分の頭の中で理解していけるような気がした。

この私達のお通夜の時間には、同時に白檀のお香を炊いた。白檀の香りは、よくお葬式や、法事などの時に嗅ぐ、昔から馴染み深い匂い。私が小さい頃は、辛気臭くてあまり好きな香りではなかったんだけど、こうしてかわいがっていたクッキーを偲ぶ際に火を灯してやると、何故かふっと心が落ち着き、悲しみから少しだけ遠ざかって、クッキーの死をすこし離れて受け止められる、そんな気がした。


個別火葬

ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

お通夜があけて次の日、私たちは車で向かえるペット霊園の火葬場に行き、クッキーの亡骸を個別火葬し、全て焼けて小さくなったクッキーの骨を一つずつ拾い、最後に自分達の用意した容器に移した。

死んだままの状態は、本当に眠っているだけのように思えてしまい、どうしても彼女が生きていた時の記憶がダブってしまって、その眠る姿を見れば見るほど、未練のようなものが募ってしまう。私達がクッキーの目の痛みを取ってやろうと…ちょっとでも長生きしてもらおうと、、、治療にかじを切ってしまったために、もうちょっとだけ長くは生きられたかもしれないクッキーの寿命を縮めてしまったんじゃないか、つらい思いをさせてしまったんじゃないか、、、本当は何が正しいのかはわからないけど、「もしも」という色んな後悔に近い思い、そしてクッキーが元気だった頃の一緒に過ごした楽しい思い出が、その寝顔を見ていると、何度も何度も蘇ってくる。

しかし、私達の思い出いっぱいのその姿も、葬儀場のスタッフの方が叩いた、太く重く透き通る鈴(リン)の音色で締めくくられ、クッキーの遺体は、火葬場へと送られていった。今まで、仏具のこの鐘に、一体何の意味があるんだと思っていた私だったが、このとき、その鐘の音色が、未練を断ち切る潔(いさぎよ)い音だということを悟った。


「100万回生きたねこ」

そうして火葬場に運ばれたクッキーを見送って、私たちは彼女の体が全て焼け落ちるのを待合室で待った。もしかしたら突然目を覚ますかもしれない、という妄想はあの鐘の音色で掻き消えたけど、その後にやってくるのは、自分たちが愛してやまなかった存在が「二度と戻ってこない」という、なんとも言えない喪失感。本当に私たちは、クッキーにできる限りのことをしてやれたのかという思いや、最後、自宅ではなく病院で死んでしまったことに寂しく思ったりしなかったのかという思い、、、今となってはどうすることも出来ない思いや、大事なものを失ったことに対しての虚脱感、、、とにかく色んな負の思いが湧き上がってくる。

ミヅキも延々泣いている。私もそれを見て泣いてしまう。そんなどうしようもない時、その待合室に一冊の絵本が置かれていた。それは「100万回生きたねこ」。この絵本は1977年、私が生まれた年に佐野洋子さんが出版した一冊の絵本。(以下、絵本の内容になるので注意)

その本は100万回、転生輪廻を繰り返して生きてきた猫のお話。あるときは海賊の猫として、ある時は王様の猫として、そしてある時は泥棒の猫として生き、何度も何度も飼猫として生き返っては死にを繰り返してきた。しかし、ある時、主人公の猫は誰の猫でもない野良猫となる。「自分だけの事が好き」な主人公の猫は、100万回生きたことを自慢し、それに憧れ色んな猫がその猫の周りには寄ってきたが、唯一自分に関心を示さなかった一匹の白猫が居た。主人公の猫は、その白猫の興味を自分に向けようと、色々とアピールしてみるものの一向に、自分に寄ってこようとはしなかった。そしてとうとう、その100万回生きた猫は一言「そばに居ていい?」と白猫に尋ねる。白猫は「いいよ」と応える。

その後、時は立ち、その猫と白猫との間には沢山の子供ができ、年老いてゆき、やがて白猫は死んでしまった。その死を前にして、その猫は悲しみに100万回、朝も夜も泣き続けた。そしてある時、その主人公の猫は泣くのをやめ、とうとう白猫の隣で静かに動かなくなり、決して生き返らなかった。

。。。話は、そこで締めくくられていた。


クッキーの幸せ

この「100万回生きたねこ」を読んだ時、私は今死んでしまったクッキーのことを思った。確かに、最後の方は老衰で目も見えず、耳も聞こえない状態で、最後は腫瘍に苦しめられ痛く、体もしんどかったかもしれない。でも、私達がこれだけクッキーの死を受け入れがたいほど悲しむのは、それだけ彼女のことを愛していたからであり、本当にできる限りのことをしてやった証。もちろん全ての彼女の望みは叶えられなかったかもしれないが、間違いなく、私たちは彼女を世界中で一番可愛がっていたし、クッキーにとって私達と過ごした14年は、間違いなく幸せだったと思う。

だから、クッキーは幸せの中で自分の命を全うしたし、思い残すことは無い。彼女が何万回犬として生きたかは知らないが、きっと「100万回生きたねこ」と同じようにもう生き返る必要は無い。

今、私達が悲しいのは、残された私達の思いであり、クッキーの悲しみじゃない。それが、無造作に待合室に置かれていた短い絵本の中には書かれていた。それが分かった時、死んでいったクッキーに対して、それが彼女にとって良かったことであり、そして彼女は悲しいわけではなく幸せだったんだということが分かった。


ありがとう。

ペットロスでの辛かった心が少し救われた話

クッキーと一緒に過ごした14年足らず。出会った最初は、抱っこすると誰かれ構わずに噛み付いていていたために、ペットショップで売れ残り、安売りまでされていた子が、ミヅキの子となり、そしてうちの子になり、、、気がつけば私たち夫婦にとって、かけがえのない存在になっていた。

私もエルモとクッキーを飼うまでは、正直言ってあまり他人に優しく接したりすることは出来ない人間だったが、いろんな大変な事も乗り越えながら、一緒に生活していくうちに、他の人にも優しくなれるようになっていき、彼女たちの存在も本当に自分の子供のような、そんな風になっていた。でも、その分お別れはとんでもなく辛いものになってしまった。未だにクッキーの写真を見るたびに泣いてしまいそうになるけど、「彼女の一生は幸せだった」とちゃんと思えるほど、愛情を持って接してきた自信があるから、彼女の死を温かく受け入れていくことができる。クッキー、ありがとう。


ペットロスで苦しんでいる人へ

これが今回、私達が経験した愛犬クッキーの死と、私達の心の悲しみとの葛藤の全て。本当は、このお話は自分達の心の中に閉じ込めておこうかとも思ったが、あの火葬場に置かれていた「100万回生きたねこ」という絵本との出会いが、もしかしたら私達と同じように、家族としてかわいがってきたペットが死んでしまいペットロスで苦しんでいる人の何か前向きなものにつながればと思い、この記事をネット上に残しておきたいと思う。

そして、今まだ元気に生きている我が家のエルモも今までと同じように愛し、そしていつか訪れるエルモとの別れの日にはエルモの一生が幸せだったとエルモが思えるように…悔いが残らないよう、可愛がりたいと思う。

14年間の楽しい思い出と一緒に。ありがとう、クッキー。安らかに。